脳の仕組みや生命を知るメリット
松田雄馬氏:ここで少し本の中身について紹介させていただきたいと思います。そのあとQ&A、それから今回の本の出版にまつわるよもやま話に移らせていただきます。
この本は「経世済民」という言葉から始まるのが、今回のチャレンジです。経世済民の言葉は、昨今サステナブルや事業の持続可能性などに関連して使われますが、「経済」という言葉の語源です。
先ほどお伝えしたとおり、人々を救う徳。「世を治めて民を救う」という言葉から作られた言葉です。経済が回ること自体が、世が平静に保たれている、あるいはより良い世になっていくことを意味します。まさにこれからのDX戦略、あるいは経営戦略を考えるにあたり、このフィロソフィを知ることが原点になると思い、まず「経世済民」の言葉を投げ掛けてみました。
この本は、非常に肉厚な本です。そもそも「デジタル」を説明しないといけないですし、その前に「生命知」とは何かから説明しないといけない。これがわかった時に、みなさんの世界がすごく広がっていくと考えています。まさに遊園地、テーマパークのようなものを作ろうと考えて、この本を作りました。
その帰結として出てくるのが「未来経営」です。先ほど楠木(建)先生もおっしゃっていましたが、「人々を救う徳」はスパンがものすごく長い。目先のことというよりは、ひょっとしたら1週間先かもしれないし、1ヶ月先かもしれないし、1年先かもしれない。長期的にものすごく儲かるなど「ものすごく良い未来」をいろんな角度から紐解いています。
序章は、「混沌とした世界に秩序を与える生命知」です。生命知について、「人間の直感」と言うと、選ばれし者の何かみたいにも聞こえたり、感性とか感覚とか感情と言うと、すごく捉えどころのない、ふにゃふにゃしたもののようにも聞こえますが、実はそうじゃないんですよ。
脳の仕組みや生命を少し知るだけで、我々が当たり前のように持っている、奥義にもつながる「知」、つまり人間の体があることの知が、自分のもののようにイメージできます。まさに長期的にめちゃくちゃ儲かるというところの原点を手に入れられることを、序章の20ページで書かせていただいています。
松田氏が考える、DXの正体
実は、この本は序章を読むだけで言いたいことがだいたい伝わるという仕組みにしています。おそらく今日参加されている方の中には、すでに本を手にされている方が多いと思います。最初、すごく分厚いなとびっくりされた方も多いと思うんですけど(笑)。言いたいことはこの序章に詰め込まれていますので、ここだけ読んだら「この本はこうだったよ」と言えちゃう。そういうちょっとおいしい作りになっています。
じゃあそれ以降は何を書いているのかと言うと、まず第一部は3章の構成ですね。ここでは、生命知がもたらすデジタル時代の組織変革、いわゆる会社組織の話をしています。会社組織・経営がデジタルを伴って変革していく時に何が起こるかと言うと、一番に起こるのは組織変革なんですよね。逆に言うと、これが起こらない組織は何をやっても意味がない。
楠木先生がおっしゃっていた、デジタルを単純に使う非競争戦略の部分ですね。それがあったとしても、生きる組織と生きない組織では、生きる組織のほうに自ずとストーリーが生まれて、そこからビジネスが展開されていくのがDXの正体じゃないかと考えています。まさにそこの一番根っこの組織変革を、第一部で書いています。
ユニコーン企業と言われるところ、あるいはアメリカン・サムライと言われるアメリカの海兵隊も組織変革の鬼みたいなところがあります。そういったさまざまな事例を使って、あの手この手で組織変革を語り尽くしています。
第二部「デジタル変革による秩序がもたらす人間らしさ」では、デジタルのお話をかなり本格的にやっています。デジタルカンパニーの一番根っこのようなところには、やっぱりGoogleのような会社に見られる企業文化があります。
そういった誰もが知るような会社の裏側や、中国の巨大ITカンパニーのアリババ、あるいは昨今電子政府で非常に有名なエストニアの事例から出発して、デジタル技術の紐解き方について。「身体による創造性を発揮する未来経営」という項目では、身体知によるデジタル変革を多くの事例でご紹介しています。
第三部が「生命知の観点から商売の日本史を紐解く」。実は江戸時代の商人たちは生命知を理解し、それによって長期的にめちゃくちゃ儲けられることを知っていたというお話をしています。
「資本主義の限界」を指摘する声の増加
そして私は、第四部がこの本のクライマックスだと考えています。第三部の終わりあたりを読んでいると、疲れてくる方が多いと思うんですが、序章を読んだら、この第四部の14章だけはぜひ読んでいただきたいなと思っています。「科学文明がもたらした『安定』×生命世界がもたらす『富』」というサブタイトルからは少しわかりにくいですが、昨今の、脱資本主義あるいは反資本主義と言われる考え方ですね。
IT、デジタルテクノロジーの行きすぎで人間がないがしろにされてしまうどころか、一部のデジタルカンパニーだけが生き残って、そうじゃないところがないがしろにされてしまうというところから「もう経済成長をやめたほうがいいんじゃないか」という声が、実はかなりあると。知的層の中でもそう言っている人がいます。
それに対して、どう反論していくのか。生命知という考え方を使えば、彼らの言っていることを否定することなく、デジタルの変革も起こすし、かつ生命知的なものももたらすし、その結果として富が得られる。長期的にめちゃくちゃ儲かるというところに、そのままつながっているんですね。
そういったかたちで、世の中で「資本主義って限界なんじゃないの」と言われるところに対して、彼らの主張を否定するのではなく、うまくこちら側の考え方に乗せていく。そういった、ちょっと学術的に見ても味のある書き方をしていますので、ぜひここだけは読んでいただきたいなと思います。
そして終章は、経営学者として世界的に有名な一橋大学の野中郁次郎先生と我々との鼎談で締めています。非常に読み応えがある本ですので、まだ読まれてないという方は、序章と14章と鼎談だけでもぜひ読んでいただければと思います。
このあとは、みなさんとの対話の時間を設けたいと思っていますが、けっこうな参加者の方が集まってくださっています。代官山蔦屋書店のお客さんに加えて、私のふだんのDXのコンサルティングや、いろんな企業研修でお世話になっている方々もいらしています。それからこの本の出版元のJMAM(日本能率協会マネジメントセンター)のみなさん。非常にバラエティに富んだ方々が来てくださっているんですけれども。
みなさんからも、ぜひご感想、あるいはご質問を募集しております。
「公共財とみなしてシェアすればいい」という考え方
まずはこの本の編集者で、日本能率協会マネジメントセンターの出版部リーダーの黒川剛さんからご質問をいただいています。
「第14章が肝とのことですね。昨今の『人新世』の文脈などもあるためか、情報やサービスを含めた財を公共財とみなし、シェア・共有すればよいと短絡的に考えることが多くなっているように感じます。こうした行為については強い懸念を抱いていると松田さんも書かれていますが、あらためてご見解をうかがえれば幸いです」ということです。
黒川さんとはこの本を二人三脚で作らせていただいたこともあって、本当に私の言いたいことをすべて理解してくださっているので、ありがたいご質問だなぁと思いながら読ませていただいています。ちょっと印象付けのためにも、14章はこんな章ですよというのを映しながらお話ししたいと思います。「デジタル×生命知がもたらす人間らしい未来」という章です。
最近非常に読まれている本で『人新世の「資本論」』という本がありますね。いわゆるマルクス主義の経済学者の斎藤幸平さんという方が書かれた本です。
「地球の時代」として中生代とか古生代とか言われるものがありますよね。彼は今の時代を「人新世」と呼ぶ。人が生まれて増えすぎて、人が自然社会にまで影響を与えているわけです。それでCO2が増えすぎて地球が温暖化しているという問題に対して、このまま普通にやっていても解決するはずがない、と彼は言っているんですね。なのでもうやれる方法としては1つ、経済成長をやめるしかないと。
じゃあそれで成り立つのかと言うと、彼は「成り立つ」と言っているわけですよ。どうすれば成り立つのかと言うと、いわゆる情報やサービス、我々の持っているさまざまなもの、富と言いますか、これをもうすべて公共財とみなしてシェアすればいいと彼は言っています。
どういうことかと言うと、例えばメルカリのサービスだとか、いわゆる多くのインターネットサービスを使って、1回服を着て、それをメルカリに出してほかの人が買って、自分たちは原価に近いようなお金をもらってというふうにすれば、まるで洋服をレンタルしている感覚で使えるわけですよ。
洋服だけじゃなくて、例えばカーシェア。車だけでなく自転車で「ライドシェア」なんていうのもありますよね。そういうふうに、ありとあらゆるものは公共財と考えることができると。ある程度レベルを下げるかもしれないけれども、そういったシェアをうまく使うことで人類は生きながらえるし、かつ地球にも迷惑をかけずに済む……というのが彼の主張だったりします。
経済成長をやめた、「シェア」推奨社会で犠牲になる人
そこに対して、私は非常に危機感を持っています。公共財、シェアという言葉は非常に聞こえはいいんですけれども、結局これで言っていることって共産主義なんですよね。要するに財産を召し上げるのに近い状態です。経済成長をやめるというのは、財産を召し上げると言っているのと一緒なんですね。
じゃあ公共財とみなせばいいじゃないか、ということですけれども。ここには非常に危険な論理の穴があります。何かと言うと「公共財」「シェアすればいい」と言うけれども、「それを作る人のことを考えていますか?」ということなんですよね。
例えばGoogleのサービス。Googleは「世界中の情報すべてにアクセスできるようにする」という使命を持っているわけですね。Googleが生まれたおかげで我々は世界中の情報に簡単にアクセスができるようになった。これがまさに情報のシェアに近い状態なわけですけれども。
じゃあ情報もシェアする時代となった時に、もうタダ同然で情報が手に入るわけですよね。だとすると、犠牲になっている人を我々はド忘れしてるわけです。それは情報を発信する・作る側の人たちですね。そこを無視してしまうと、すぐにアクセスが稼げるとか、すぐに何か答えが返ってくるとか、刹那的なことが起こり、やがて人はそういったものしか発信しなくなってしまうわけですね。
つまり楠木先生と私でお話しした、長期的にめちゃくちゃ儲かるというところを誰もやらなくなってしまうわけですよ。だから『人新世の「資本論」』で言う「公共財」という考え方はある意味で、「商売をする」「徳をもって長期的な戦略を描く」ということを、まったくもって無視している。悪く言ってしまうと「大学の先生が考えそうなことだな」という感じがしますね(笑)。
人に豊かになってもらって、結果として自分が豊かになるというのがまさに商売の本質なわけですけど。そこを考えずに公共財というのを語ってしまうと、そういう失敗がある。そういった論が出てくること自体がまさに、人々を救う徳という商売の基本が失われているからではないかと私自身は思います。
<続きは近日公開>
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