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Saturday, January 28, 2023

<竿と筆 文人と釣り歩く>「幻談」幸田露伴:東京新聞 TOKYO Web - 東京新聞

◆釣聖、大戦前夜の発表作 それは音もなく近づいてくる

早朝の隅田川で竿を出す元釣り記者の森本さん=江東区で

早朝の隅田川で竿を出す元釣り記者の森本さん=江東区で

 釣聖とも呼ばれた作家、幸田露伴に「幻談」という有名な短編がある。

 江戸時代のひとりの武士。旗本ではあるが役はなく、暇に飽かして毎日のように大川(隅田川)から江戸前の海へ舟を出し、釣りに興じた。あるとき、それなりの腕であるのに、全く釣果に見放されてしまった。

 そして三日目の夕暮れ…。

 やはり魚は釣れず、愛用の竿(さお)まで折れた。意気消沈で帰路についた舟で、武士は異様なものを目にする。

 薄暗い水面から細い棒のようなものが出たり引っ込んだりしていた。近づくと船頭の吉が「ヤ、お客さんじゃねえか」と目をむいた。「お客さん」、つまり溺死者が釣り竿を握り締めて水中に漂っていた。この釣り竿が見たこともないほどの名品だった。武士は誘惑に負け、お客さんの指を折って、竿を奪い、持ち帰る。

 翌日、舟を出し、例の竿を使うと不思議なことが起きた。不調がどこへやらで釣れるわ釣れるわ。ご機嫌で帰ってきたのはいいが、なんと前日と同じあたりで、また水面から竹が出たり引っ込んだりしている。

 武士と船頭は顔を見合わせた。「この世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた」。武士は南無阿弥陀仏と唱えて竿を海へかえした。

 もともと江戸の庶民は妖怪や怪談が大好きだった。隅田川の一帯にも、「置いてけ堀」で知られる「本所七不思議」のような奇譚(きたん)が数多く残っている。

 だが、この「幻談」に描かれた息が詰まるような、暗く重苦しい空気は、ひと味違うような気がする。

 作品が発表されたのは一九三八(昭和十三)年。この年、南京に日本の傀儡(かいらい)政権・中華民国維新政府が樹立され、国内では国家総動員法が成立した。ここから日本は長い戦争の時代へと突入する。なにやら恐ろしい魔物がやってくる。波間に漂う名竿のように。そんな予感が当時の帝都を覆っていたのではないか。

 隅田川を愛した露伴は、長く向島に構えた「蝸牛庵(かぎゅうあん)」に住んだ。本編を書いた七十歳当時は小石川に居を移していたが、空襲で家を失い、悲嘆のうちに七十九歳で亡くなった。

幸田露伴の旧居「蝸牛庵」跡に造られた「区立露伴児童遊園」=墨田区で

幸田露伴の旧居「蝸牛庵」跡に造られた「区立露伴児童遊園」=墨田区で

 「幻談」に登場する武士が熱中したのは江戸弁でケイズと呼んだ黒鯛(くろだい)の釣り。隅田川から河口部の江戸前の海一帯は、かつてはほかにも青ギス、コイ、カレイなどのよい釣り場だったという。戦後は汚染がひどく、消えうせた魚もあるが、水質が戻った今では、ハゼ、ボラなどがよく釣れる。

 護岸が親水遊歩道に整備されたこともあり、早朝や深夜にルアーで大きなシーバス(スズキ)を狙う若い釣り人も増えてきた。実は露伴がもっとも愛したのはスズキ釣りだという。

ライトアップされた永代橋と佃島の高層ビル群。現在の隅田川は夜でも闇に沈むことはない=中央区、江東区境の隅田川大橋から

ライトアップされた永代橋と佃島の高層ビル群。現在の隅田川は夜でも闇に沈むことはない=中央区、江東区境の隅田川大橋から

 そこで実釣。東京中日スポーツの元釣り記者、森本義紀さん(75)の案内で早朝の川へ向かった。場所は小名木川との合流部。芭蕉(ばしょう)庵史跡展望庭園の芭蕉像が川を見下ろしているあたりだ。

 「日が昇りきるまでが勝負。障害物の周りを狙ってとにかく投げる」という森本さんの指示で、ひたすらルアーを飛ばしては引く。しかし折からの寒波襲来でとにかく寒い。北風に体が凍り付き、対岸の高層ビルを朝日が照らし出した頃、釣果なしで終了とした。

 ところで最近、「新しい戦前」などという言葉を聞くようになった。暗い波間に目を凝らしたとき、「それ」は浮かんでいないか。

<幸田露伴(1867〜1947年)> 大露伴とも称された文豪。代表作は小説で「五重塔」「風流仏」、史伝で「頼朝」「運命」「平将門」など。釣りや将棋など多趣味でも知られた。小説家の幸田文は娘。

 文・坂本充孝 写真・田中健

 原則毎月第4日曜日に掲載。次回の予定は2月26日。

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