碧洋(へきよう)を共に望んだ、1973年。2人は太平洋を進む青年の船「コーラル・プリンセス」(1万トン)で出会った。
「よく気がつく繊細な人。思いやりと優しさがあった」。釜石市大渡町の災害公営住宅で暮らす富田美枝子さん(70)は、東日本大震災で亡くなった夫の重之さん=当時(66)=を思い出す。
高校を出て、故郷の松山市で働いていた。第2次世界大戦の悲しい歴史が眠るフィリピン・モンティンルパや香港、沖縄を巡る2週間の船旅でゆっくりと打ち解け、文通を約束。松の絵柄の20円切手が少しずつ思いをつなぎ、2年後、千キロの距離を超えて結ばれた。
当時、四国と岩手は遠かった。国鉄松山駅で確かに「釜石まで」と言ったのに、駅員に渡された切符は塩釜行き。追加運賃を支払い、不安に押し出されるように降り立った。
鉄のまち釜石は沸き立っていた。嫁いだ富田写真館も繁盛し、新婚生活は楽しかった。81年に同船が本県青年の船として釜石港へ寄港した際には、8年前と同じケネス船長が、4歳になる長女の成長を祝うメッセージを記してくれた。
それから新日鉄釜石の高炉が休止し、娘が神奈川県に嫁ぎ、写真館を閉め、静かに暮らしていた2011年。かつて写真館だった家には、重之さんと義姉豊子さん(78)、95歳だった義母八重子さんがいた。
長い揺れの後、出先から電話をかけると重之さんが出たが、一言も話さぬうちに切れた。玄関から黒い水が流れ込むのを見た重之さんは「2階へ上がれ」と母らを避難させ、自ら手すりに手をかける寸前、急に喉まで上がった水に音もなく流されたという。豊子さんがどれほど名前を呼んでも、もう返事はなかった。
長年放置され、クモの巣とかびだらけだった釜石市甲子町の雇用促進住宅がみなし仮設住宅となり、3人で暮らし始めた。同じ市内とは思えぬほど寒く、「小さくても家を建てたい」と願った八重子さんは14年に老衰で亡くなった。震災から5年半後、やっと現在の災害公営住宅に移った。
その間支えてくれたのは地域の人たちや、重之さんが地区の青年部長や渉外部長を務めた立正佼成会の仲間だった。
商売が順調な時もおごらず、遠い国の紛争に心を痛め、口癖から「『世界平和』の重之さん」と慕われ、3人の孫たちの写真に「普通でいいから」と声をかけ、小欲知足と感謝の心で生きた人柄を皆がしのんだ。
「人はいつか必ず亡くなるのだから、それまでどう生きるかが大切だと教えてもらいました。家族はみんな、あなたが残した温かさと思いやりを心に刻み、懸命に生きています」
災害公営住宅は南向きで、日当たり良好。窓から遠く望む紺碧(こんぺき)の太平洋が、今日も輝く。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
農民芸術概論綱要より抜粋
~東日本大震災
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日~
◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス▽フィルム現像液 D-76▽印画紙 フジブロWPFM2、イルフォードMGⅣ▽印画紙現像液 デクトール
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May 25, 2020 at 12:03PM
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あしあと(34)富田美枝子さん(釜石) - 岩手日報
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