〈「組織に歯向かう敵を次々と葬り、力士も斬り倒した」日本一有名な“伝説のヤクザ”山口組3代目組長・田岡一雄の“実力” 〉から続く
結成から約100年が経つ、国内最大の暴力団・山口組。誰もが一度はその名を耳にしたことがあると思うが、組織の歴史や活動内容を知っている人は意外と少ないのではないだろうか?
【画像】あの国民的スターも…ヤクザと“交際”していた大物芸能人を写真で見る
ここでは、山口組の歴史と組織の全貌をわかりやすく解説した、フリーランスライター・山川光彦氏の著書『令和の山口組 』(新潮社)から一部を抜粋。山口組と芸能界のかつての関係について紹介する。(全2回の2回目/1回目 から続く)
写真はイメージです ©アフロ
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芸能・興行界と山口組
初代・2代目時代の「山口組興行部」、3代目・田岡が経営した「神戸芸能社」については前に触れましたが、芸能界との関係は今どうなっているのでしょうか。
芸能人の扱いには定評のあった田岡は、親交を深めた相手とは愛人の住所まで知らされるほど深くつきあったとされます。前記の猪野氏の著書(『山口組概論』)によると、田端義夫、川田晴久、伴淳三郎、清川虹子、山城新伍、里見浩太朗、淡島千景、村田英雄、三波春夫、フランク永井、松尾和子、江利チエミ、舟木一夫、五月みどり、坂本九……と、俳優、歌手、芸人を問わず、売れっ子芸能人の大半を興行で「世話」し、濃淡の違いはあるものの個人的にも交際を密にしていました。
なかでも、実の娘同然に寵愛した美空ひばりには、「後見人」を請われて「ひばりプロダクション」副社長に就任。1964年の小林旭との離婚会見ではひばりの親代わりとして同席し、記者の質問に答えたのは有名な話です。
山口組と美空ひばりの関係
映画界ではなんといってもトップの岡田茂社長との阿吽の呼吸で知られた東映と太いパイプがあり、任侠映画全盛時代は言うに及ばず、1970年代に入って以降も、高倉健、菅原文太の2大スターをはじめ数多くの俳優と親交を持ちました。なかでも、勝新太郎とは昵懇(じっこん)の仲だったようです。
田岡が週刊誌に執筆した自伝が、1973年に刊行されベストセラーとなると、この自伝をもとに田岡の半生は映画化され、田岡役を大物俳優の高倉健が演じたこともあり、空前のヒットを記録しました。故・松田優作や役所広司といった名優が司6代目役を演じてヒットするようなものでしょう。
しかし、山口組と芸能界との蜜月ぶりに警察当局は次第に不快感をつのらせました。当局の先導で、かとう哲也の芸名で活動していた美空ひばりの実弟が、横浜の山口組系列組織の役職についていたことが問題視されます。実弟(と背後の組織)を庇った美空ひばりは、公演の中心となる公共施設から閉め出され、その年のNHK紅白歌合戦にも選ばれませんでした。ひばりにとって山口組は実弟と同様、「血は水より濃い」関係だったのでしょう。
加茂田組長が主催するパーティーに多くの芸能人が参加
ちなみに、1981年に田岡が死去した際に、一般人向けの葬儀に参列したなかには、ひばりをはじめ、勝新太郎、鶴田浩二、菅原文太らの姿がありました。芸能人とのこうした人脈は、田岡の死後も多かれ少なかれ、その部下たちに受け継がれていきます。
東映任侠映画の主役に抜擢された高倉健に侠客の所作を教えたのは、山口組随一の知名度を誇ったボンノこと菅谷政雄でした。
また、菅谷組に次ぐ勢力を誇った加茂田組の加茂田重政組長が地元・神戸市長田で開く地蔵盆には、山城新伍ほか多くの芸能人が駆けつけました(当時の写真を見ると、加茂田組長が主催するパーティーに参加した芸能人には、菅原文太、杉良太郎、松平健、細川たかしなどの顔が見られ、加茂田家の祝宴で司会を務めたのが、若き日の明石家さんまだったりします。時世の違いが窺われます)。
面倒見の実費は大半が持ち出し
ヤクザも堅気の旦那衆(スポンサー)に愛されてナンボ、という点では同じ浮草稼業の芸能人には親近感があり、表社会でネームバリューのある芸能人への有形無形の支援は親分としてのハク(社会的信用)をつける小道具になりました。組織の功労者が服役する刑務所に著名な芸能人を慰問に行かせれば、それが親分への評価にもなりました。
ただ当然ながら、ヤクザが身にまとう高級ブランドのアクセサリーと同じで、面倒見の実費は大半が持ち出しとなります。さる著名人のスキャンダル揉み消しに奔走した山口組の幹部は、「ユスろうとしたチンピラの顔を立てて相当額を渡したんだが、かかった経費は全部こちら持ちだよ。紹介者の顔を立ててね」と語ったものです。それが「顔役」としての信頼感にかかる必要経費というわけです。
芸能界と闇社会との交流がメディアで報じられる
ヤクザと芸能人の蜜月時代は長く続きました。それがさほど社会に疑問を持たれることなく続いていたことが図らずも明らかになったのが、2008年、経済ヤクザとして知られた後藤忠政組長の誕生パーティー・ゴルフコンペでした。
小林旭、細川たかし、角川博、松原のぶえ、中条きよしらの芸能人が参加していたことが『週刊新潮』のスクープで発覚。それを受けて、NHKが番組への出演自粛を要請、騒動が広がりました。
さる資料によると、もともと後藤組長が芸能界や格闘技界に華麗な人脈を築いたきっかけは、民族派の野村秋介を介して芸能界の大物S氏と親交を結んだことであったようで、「後藤さんの席に呼び出された某有名女優がすぐに店に駆けつけたので驚いた」という程度の話は六本木界隈ではよく聞かれていたものでした。
いわば“暗黙の了解”で報じられることがなかった芸能界と闇社会との交流が、おおっぴらにメディアで俎上に載せられたのは異例のことでした。スポンサーに去られ、6億円に上る損失を被ったといわれる小林旭は、それでも雑誌(『週刊SPA!』)の取材に「後藤の親分と一緒にゴルフやって何がいけなかったの? 誰が迷惑したの?」と疑問を呈し、世間でも「持ちつ持たれつ」を黙認する風潮は残りました。
吉本興業に必要だった“禊”
しかし、なんといっても「蜜月」にとどめを刺したのはその3年後、全都道府県に暴排条例が行き渡った2011年に、山口組最高幹部との交際を理由に、人気タレントの島田紳助が吉本興業から引退を宣告された一件でしょう。
吉本興業といえば戦前、創業者の吉本せいの時代に大物浪曲師・広沢虎造の映画出演をめぐる紛争で、支援に回った山口組2代目・山口登が対立組織に刺される事件がありました。そうした歴史が示すとおり、山口組とは単なる「用心棒」の縁を越えた因縁浅からぬものがあったのです。
しかし、たとえ紳助のような稼ぎ頭といえどもヤクザとの交際を断ち切らなければテレビ業界から弾き出される時代が到来しました。東京都の条例では、過去に暴力団と密接に関係していたことを公安委員会に申告して絶縁を約束すればお咎めなし、とする規定がありましたが、紳助には適用されませんでした。
うがった見方をすれば、その後ときの政権に急接近し、会長みずからが「僕らは(政権の)手先ではない」(『朝日新聞』2019年7月14日付朝刊)と弁明するほど“政商”化していった吉本興業に必要な「禊(みそぎ)」だったのかもしれません。
「一体、どこに排除しろというんですか?」
暴排条例に芸能界でほぼ唯一、公然と反論したのは、大物歌手の松山千春でした。自らのコンサート中のトークで「日本国憲法の中には『一部の国民とは付き合うな』とか『飲食を共にするな』という文字は一行も入っていません。まして、国家権力が、一部の国民を取り上げいじめてもいい、などという言葉も入っていません」「よく考えてみてください。北海道から沖縄まで、すべての都道府県の条例で『排除しろ排除しろ』って。では、そういった人たちを一体、どこに排除しろというんですか?」と、いたってまっとうな異論を呈したのです(『夕刊フジ』2011年10月4日配信)。
ヤクザの会合に出席したことを咎められ地上波から排除されて以降も、持論に変わりはなかったようです。
美人局による恐喝は半グレ集団に代わられつつある
紳助騒動以降も、大手芸能プロと組織の持ちつ持たれつの関係は水面下では維持されていると当局も認めていて、タレントのトラブル処理に暴力団や周辺者が対応にあたる例は皆無ではないようです。有名タレントを刑務所へ慰問させる際には組織の力量が問われたりもします。
ただ、以前なら末端のチンピラヤクザがシノギにしていたタレントへの“美人局(つつもたせ)”による恐喝などの腐れ縁は、暴対法の規制を受けない元関東連合のような半グレ集団にとって代わられつつあるとのことです。
ちなみに、司6代目が渡世の振り出しに主な稼業としたのは、ナイトクラブへの芸能人の仕出しだったとされます(当時の実業としてはポピュラーなもので、正式名称は「司プロダクション」)。当局主導で進んだ、芸能人も含む一般人(社会)とヤクザとの関係遮断について、司氏は前出の『産経新聞』インタビューで「異様な時代が来た」と批判しています。
(山川 光彦/Webオリジナル(外部転載))
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