在日ミャンマー人らの間で最も有名な日本人かもしれない。ジャーナリスト兼ミャンマー研究者の田辺寿夫(ひさお)さん(79)=東京都日野市。得意のミャンマー語で六十年にわたり、異国で暮らす人々と交流し、支援してきた。昨年以降、千五百人を超す民衆が命を落とした国軍のクーデターに直面しても、人々が民主的なミャンマーを取り戻すことを信じて力を尽くす。 (北川成史)
昨年五月、クーデターをテーマにしたオンラインイベントで、田辺さんは通訳として在日ミャンマー人らと席を並べた。「ウー・シュエバ(ウーは敬称)とか、ババと呼ばれています」。田辺さんの自己紹介にミャンマー人から笑い声が上がった。「シュエバ」とはミャンマーの伝説的な映画俳優の名で、「ババ」はミャンマー語で「オヤジ」の意味。親しまれている証しだ。
田辺さんは一九四三年、埼玉県川口市生まれ。京都府で育ち、大阪外国語大(阪大に統合)でミャンマー語を学んでNHKに入局。国際放送局でミャンマー語のラジオ番組の制作を長く担当した。
田辺さんとミャンマーの縁は父の代にさかのぼる。父は戦時中、インパール作戦に伴いミャンマーに増派された旧日本軍の一員だった。終戦で連合軍の捕虜になり、四七年に帰国した。「アマラプーラという所に、きれいな看護師さんがおってなあ」。父は懐かしそうに口にした。つらい収容所生活には触れないようにしていた。
田辺さんは元々、京大で歴史の勉強をしたかったが、入試で不合格。大阪外大ビルマ(現ミャンマー)語学科の併願を勧めたのは父だった。七〇年から半年間、ラングーン(現ヤンゴン)に留学した際、父の思い出の場所を丘から眺めた。「あそこがアマラプーラだぜ」。この二年前に他界した父の写真をかざすと涙があふれた。
八八年、田辺さんに大きな影響を与える出来事がミャンマーで起きる。アウンサンスーチー氏らをリーダーとする民主化運動を国軍が弾圧。庇護(ひご)を求めて日本に渡る民主派の若者が相次いだ。
「四十代半ばの私に、彼らは息子や娘のようだった」。田辺さんは仕事の傍ら、難民認定を求めるミャンマー人の裁判で何度も通訳を務めた。不法滞在などの疑いで拘束されたミャンマー人と弁護士の面会でも橋渡しした。
ミャンマー人社会との関係が深まり、司会兼通訳で出席した結婚披露宴は百回ほどに上る。「おかげで、東京中の警察署の留置場と結婚式場を知っている」と笑う。
「神様のような存在」。八九年に亡命し、裁判で田辺さんに通訳してもらった飲食店員ウィンチョーさん(57)は恩を忘れない。「民主化運動の集会でも通訳をしてくれた。ウー・シュエバがいなければ、私たちは日本でやってこれなかった」。田辺さんは軍政からは嫌われ、ミャンマーのビザを受給できなくなった。
「皆、よく頑張ったな」。時代が変わったと田辺さんが感じたのは二〇一六年、スーチー氏のもと、半世紀ぶりの文民政権が生まれたころからだった。かつての民主活動家も田辺さんも、ミャンマーに入国できるようになった。最大都市ヤンゴンの大通りを歩いていると突然、声を掛けられた。「ウー・シュエバ、日本で世話になったよ!」
しかし、民主化と経済成長への前向きな雰囲気は昨年二月、国軍のクーデターで絶たれた。田辺さんの身辺も慌ただしくなった。都心での抗議デモに赴くと約五千人のミャンマー人らが集っていた。
「迸(ほとばし)るように、自由と民主主義を求める心がある」と感じた田辺さん。彼らの「命を懸けて国軍と闘う」という決意を耳にしてきた。「日本人は大戦中、どれだけの人が軍部に反対したか。私たちこそ、ミャンマー人の姿から学ぶべき点がある」
シュエバの名はNHK入局後間もなく、スタッフのミャンマー人らが付けた。一九五〇〜六〇年代に活躍したスターで、支配者にいじめ抜かれるが、最後は勝利して民衆を助ける役どころが多かった。
「拙いミャンマー語も、やがて上手になると励ますために付けたのか」と田辺さん。「シュエバに至らなくても近づきたい」。国軍に虐げられる民衆の勝利を信じて力を傾ける。
◆大戦後3度のクーデター
ミャンマーは一般的に親日国と言われてきたが、日本との歴史的なつながりは複雑さをはらむ。
一九三〇年代に中国に侵攻した旧日本軍は、英米の対中支援路を断つため、英国の植民地だったビルマ(現ミャンマー)の独立闘争を利用した。闘争のリーダーはアウンサンスーチー氏の父アウンサン将軍。旧日本軍はアウンサンらに軍事訓練を施し、ビルマ独立義勇軍(BIA)を組織させ、ビルマに侵攻。英国を追い払ったが、ビルマを占領下に置いた。
その後、アウンサンは対日武装蜂起。日本が去り、英国との独立交渉をまとめたが、政敵に暗殺された。独立後から国内は民族紛争など不安定で、六二年に国軍のネウィン将軍がクーデターを起こし社会主義政権(事実上の軍政)を築くが、経済的に低迷。日本の政府開発援助(ODA)に頼った。
民主化運動の広がりで、ネウィンは八八年に退陣したが、再び国軍がクーデターを実行し、国名をミャンマーに変更。スーチー氏を計十五年間自宅軟禁にした。
二〇一一年、元軍人のテインセイン政権が成立し民政に移行。総選挙でスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、文民政権を樹立したが、権力の侵食を恐れる国軍は昨年、三度目のクーデターでスーチー氏らを拘束した。
◆スーチー氏の通訳も
田辺さんはアウンサンスーチー氏の通訳をしたことがあり、「負けるな!在日ビルマ人」(梨の木舎)などミャンマー関係の多くの著書・訳書も手掛ける。
最初の通訳は、スーチー氏が1985〜86年、京都大の客員研究員として来日したとき。父アウンサン将軍と交流のあった元日本軍関係者に聞き取りした際、同行した。日本語を勉強したスーチー氏は、田辺さんが書いた戦中の日本とミャンマー関係の論考を読むなど、勉強熱心で頭も鋭かったという。
スーチー氏が最初の自宅軟禁から解放された後の96年、社会民主党党首だった故・土井たか子氏との電話会談で、2度目の通訳をした=写真、田辺さん提供。田辺さんが遅刻し、代わりの通訳の拙さにスーチー氏が「ウー・シュエバはいないの?」と訴えたという逸話が残る。
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