(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト) 上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530~1578年)といえば、「戦国時代最強」との呼び声の高い、この時代の中でも屈指の実力と人気を兼ね備えた武将です。 【写真】上杉謙信を裏切りまくった男、佐野昌綱の肖像画 その上杉謙信に対して幾度となく背信を繰り返しながら、大名の命脈を保ち続けた武将がいたことをご存じでしょうか。 その武将の名は、佐野昌綱(さの・まさつな、1529~1574年)。ご当地ラーメンの「佐野ラーメン」で有名な栃木県佐野市を支配していた武将です。 今回は、稀代の名将を裏切り続けた、ある意味で稀代の反逆者ともいえる佐野昌綱の生涯について紹介したいと思います。なお上杉謙信は一生の中で長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎などさまざまな名前を名乗っていますが、本稿では「上杉謙信」で統一します。
■ 出会いは「小田原城攻め」 佐野昌綱は戦国時代、下野国安蘇郡佐野庄(現・栃木県佐野市)に代々本拠を置く佐野氏の一族として生まれました。1559年に家督を継ぎ、佐野氏の第15代当主となります。 昌綱と上杉謙信の最初の出会いは、1560年より行われた、かの有名な謙信の「小田原城攻め」でした。 この年、関東管領であった上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579年)の要請を受けた謙信は、小田原城を本拠とする北条氏打倒を目的に兵を挙げ、関東地方へ遠征にやって来ました。この遠征に先駆けて、謙信は関東管領の代行者という立場で、関東にいる諸将に対し自らの下へ参集するよう呼びかけました。この呼びかけに昌綱も応じ、謙信とともに小田原城攻めに参加したと言われます。 ■ 最初の裏切り しかしこの時の小田原城攻めは失敗に終わり、武田信玄に背後を脅かされた謙信も本拠地の越後(現・新潟県)へ軍を引き返してしまいます。
これに困ったのが昌綱をはじめとする上杉家に従った関東の諸将たちでした。関東に拠点を置く彼らは、謙信の撤退によって勢力を盛り返した北条家に逆にターゲットとされてしまいます。頼みとする上杉家は武田家との抗争のため援軍を送れず、事実上、関東地方で孤立無援となった昌綱は、上杉家を裏切る形で北条家に降伏しました。 しかし、昌綱が居城とした唐沢山城(からさわやまじょう、栃木県佐野市)は関東支配における重要な拠点であり、北条家と争う上杉家としては、なんとしてでも確保しておく必要のある拠点でした。 そのため武田家との抗争に一旦ケリをつけると、謙信は1561年12月、この地を奪回すべく、昌綱が籠る唐沢山城へと攻め込みます。 しかし1回目の攻撃は積雪によって撤退に追い込まれ、翌1562年3月の2回目の攻撃でも堅固な唐沢山城を落とし切れず、謙信は2度にわたり撤退することになりました。 ■ 恭順、そしてまた裏切り 1563年、関東地方における勢力挽回を期して、謙信は再び遠征を行います。この時の上杉軍の勢いは凄まじく、北関東の諸城を次々と陥落させており、この破竹の勢いを見た昌綱は上杉家に再び恭順しました。
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