1999年に61歳で亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場さんの墓が、明石市にある。身長2メートルを超える長身に、愛嬌のある人柄。昭和から平成にかけての大スターは、鍛冶で有名な新潟・三条市が出身地のはず。なぜここに眠るのか。必殺技「16文キック」で当時を熱狂させた馬場さんの大きな“足跡”をたどった。(近藤修史)
2人一緒に
JR明石駅から歩くこと約10分、本松寺に着いた。境内の墓地を歩くと、「馬場家各霊位」とある墓石の前に、馬場さんのリングシューズを黒御影石で再現したモニュメントがあった。
ちなみに馬場さんの足のサイズは16文(38.4センチ)ではない。「16文キック」の名は、馬場さんが武者修行で訪れた米国で購入した靴底に「16」のラベルがあったことから、当時の記者が名付けたらしい。
なぜ、明石なのか。
聞けば、本松寺は、妻・元子さんの実家の菩提寺。36年前、大好きな父親を亡くして悲嘆に暮れる元子さんに、馬場さんが「お父さんの横に2人の墓を建てよう」と声をかけてできたという。
馬場さんは故郷の墓を姉に任せ、妻の気持ちに寄り添ったのだ。
99年に肝不全で亡くなった馬場さんの遺骨は、元子さんが亡くなる2018年まで自宅で保管され、元子さんの遺言通り、2人一緒に納骨された。相思相愛の夫婦だったのだろう。
釈孝修住職は「穏やかな方で、馬場さんを慕い、この地で一緒に眠ることを求めたのでしょう」と語る。
巨人キャンプで
プロレスラーになる前、馬場さんはプロ野球・読売巨人軍の投手だった。実は明石市とのつながりも、巨人軍が縁。明石は当時、キャンプ先の一つだった。
付け加えると、左足を高く上げる「16文キック」も、右投げの馬場さんが、投球時に左足を上げる習慣があったために生み出されたと、後に本人が語っている。
元子さんの父が所属した明石ロータリークラブによると、元子さんの実家には、キャンプ中の選手が度々招かれ、天ぷらが振る舞われるのが恒例だった。
元子さんとの出会いはこの時のこと。足が大きくサイズがなかった馬場さんのため、元子さんらが特大のスリッパを用意したことを機に文通が始まり、交際に発展したのだ。
後年、馬場さんと親交があった明石市の医師・田路良博さん(87)は「元子さんにほれ込み、生涯大切にしていました。激しく争うリング上の姿からは想像もつかない、優しい人でしたよ」と話す。
もう一つちなみに、馬場さんは修業の末、より強力なドロップキックの必殺技「32文人間ロケット砲」を生み出す。16文が2足で32文。食らった選手はひとたまりもなかったはずだ。
震災慰霊碑も
馬場さんと明石を語る上で欠かせないエピソードの一つに、阪神大震災がある。
馬場さんが元子さんと出会った明石も、震災で26人が亡くなり、1万棟近くが全半壊した。被害を受けた明石の家の片付けとともに、ファンクラブの一人一人に連絡を取り、必要なものを聞き取って配布した。さらには義援金目的のプロレス興行を淡路島で開く。
還暦を前にした体にむち打ち、リング上でファンに支援を求めた。明石ロータリークラブを介し、98年4月に県立明石公園に犠牲者を悼む慰霊碑を建てた。
高さは馬場さんの身長と同じ2メートル9。除幕式では馬場さんがちびっ子らに囲まれ、慰霊碑と背比べして周囲を和ませた。会員の増岡義教さん(72)は「実直でありながら、ユニークな人だった。被災者に寄り添う姿が印象的でした」と目を細める。
馬場さんと明石を結んだのは、妻へのまっすぐな愛情だった。元子さんのめいの緒方理咲子さん(64)は言う。
「明石は夫婦のホームグラウンド。やっと2人でゆっくりできるね、と喜んでいるはず」
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