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Wednesday, July 15, 2020

フランス革命の発火点 民衆に襲撃された監獄とは? - ナショナル ジオグラフィック日本版

1789年7月14日、フランス市民がバスティーユ監獄を占拠。この国営の監獄は、国王の絶対的権力を象徴するものと考えられていた。パリのカルナバレ美術館に所蔵されているジャン=バティスト・ラルマンの絵画「バスティーユ襲撃」は、フランス革命の発端となったこのできごとを描いている。(PHOTOGRAPH BY FINE ART IMAGES, HERITAGE IMAGES/GETTY)

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 1789年7月14日、怒れる市民たちがパリのバスティーユ監獄になだれ込み、致命的な打撃を与えた。フランスの旧体制を象徴したこの悪名高い監獄は、やがて解体され、もはや存在しない。

 だが、その遺産は今も確かに感じることができる。フランス革命の決定的なできごとの一つとして、7月14日はバスティーユ・デイ、あるいは革命記念日としてフランスじゅうで祝われているからだ。

絶対的権力の象徴になるまで

 1357年に建築が始まったバスティーユは、8つの塔がある堂々たる建物だった。もともとは英国との百年戦争(1337年~1453年)の最中に、パリの東門だった「サン・タントワーヌ門」を守る要塞として作られたものだ。要塞は壕に囲まれ、地下牢も設けられていた。だが、その目的は時代とともに変化、国直轄の監獄となり、国王の絶対的権力と言論弾圧を象徴する存在となっていった。

 革命前のフランスでは、国王が逮捕状を発行して臣民を収監することができた。この場合、裁判も行われず、釈放日もなく、上訴することもできなかった。多くの君主がこの権力を乱用し、政治犯やポルノ作家、扇動犯、許されない結婚や不倫によって家名をおとしめた若い放蕩貴族などを収監した。そのため、囚人の多くは貴族や作家で、あのサド侯爵も囚人の一人だった。一方で、窃盗などの軽犯罪で逮捕された市民が収監されることもあった。

 バスティーユに収監された囚人の数は時とともに減っていき、貴族の囚人はかなり快適な生活を送れるようになった。1774年にルイ16世が即位するころには、バスティーユの囚人は年間平均でわずか16人ほどになっていた。それでも、絶対君主制への不満がつのり始めていた一般市民にとって、バスティーユは威圧的に立ちはだかる存在であることに変わりなかった。

革命前夜

 ルイ16世が即位したのは、浪費と長年の戦争による財政危機の只中だった。ルイ16世と妻のマリー・アントワネットは贅沢な生活を続けたが、国は破産の瀬戸際にあり、人々は食料不足、大量失業、高い税金に苦しんでいた。

 当時のフランス社会は、社会的階級(身分)によって厳格に3つに分かれていた。危急のときには、国王がそれぞれの代表を集めて問題について議論する三部会と呼ばれる会議を招集できた。1789年5月、ルイ16世は第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の代表者を集め、国の財政問題について議論しようとした。

【動画】革命 101

世界の歴史や政治を一夜にして変えてしまうのが革命だ。何が米国やフランス、中南米、ロシアの革命につながったのか。ほぼすべての政治的な騒乱に共通する特徴とは何だろうか。(解説は英語です)

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