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Wednesday, August 9, 2023

美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第44回 ... - 読売新聞社

〈北斎の「凱風快晴」と並び、浮世絵史上に燦然と輝く広重畢生の作品であろう〉

浮世絵研究家でもある作家、高橋克彦氏は『浮世絵鑑賞事典』の中で、上に挙げた「蒲原」を激賞する。〈雪明かりに照らし出された蒲原は、雪に浄化され静まりかえり、神秘性すらおびて、この世のものとも思えぬ美しさだ〉。白い雪と暗い空の対比。圧倒的な自然の中で生きる人々の姿。詩情にあふれた「広重ワールド」がそこには展開されている。

葛飾北斎が「世界で一番有名な浮世絵師」だとすれば、「二番目に有名」なのは、おそらく歌川広重だろう。「東海道五拾三次之内」「東都名所」「名所江戸百景」「富士三十六景」……数多くの名作を残した広重は、肉筆画、版本などを併せると、生涯2万点に及ぶ作品を手がけたという。「美人画」の春信、歌麿、「役者絵」の豊国、写楽、「武者絵」の国芳……それぞれのジャンルで名を残したこれらの絵師とともに、広重は浮世絵の歴史に大きく名を刻んでいる。

歌川広重「東都名所 芝浦汐干之図」

では、広重は浮世絵の世界にどんな足跡を残したのか。

〈浮世絵の主題の拡張に重要な役割を果たしたのが、二人の絵師、葛飾北斎(一七六〇~一八四九)と歌川広重(一七九七~一八五八)の天保期(一八三〇~四四)の仕事であった〉

『浮世絵細見』で、あべのハルカス美術館館長の浅野秀剛氏は書く。何度も同じ事を書くようで申し訳ないが、黎明期から浮世絵の中心は「美人画」と「役者絵」だった。「風景画」を人気ジャンルに育てたのが、北斎と広重だったのである。天保元(1830)年には北斎の「冨嶽三十六景」の制作が始まり、天保3(1832)年から同4(1833)年にかけて広重の「東都名所」「東海道五拾三次之内」が開板される。これらの作品が評判を呼んで、浮世絵の「名所絵」は「風景画」へと進歩を遂げたのである。

「北斎は、年を経ることに作風や画題を変え、次々と新しい事に挑戦しました。一方の広重は亡くなるまで数千もの風景画を描き続けました」と太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんは話す。「東海道」をテーマにしたものだけでも20種類を超すシリーズを広重は手がけた。北斎とともに「風景画」の道を切り開いた広重は、生涯その道を歩み続けた。

歌川広重「東海道五拾三次之内 御油 旅人留女」

北斎と広重の「風景画」は、いろいろな意味で対照的だ。〈洋風の風景表現という新しい魅力を開発することに貢献した北斎に対して、広重は江戸の町の美しさ、慕わしさを詠嘆的にといって良いほどにしみじみと描いて、大衆の関心を誘うことに成功をおさめたのであった〉と岡田美術館館長で国際浮世絵学会名誉会長の小林忠氏は『浮世絵』で書く。

時に幾何学的にも見える大胆な構図が特徴の北斎に対し、広重の描く風景は「見たまま」が重視され、空や海が微妙な色合いで表現されている。「広重の絵は、どこか落ち着く、見ている人の心を映し出すような柔らかさがありますね」と日野原さん。上に挙げた「御油 旅人留女」を見ても分かるように、そこに登場する人々の営みも柔らかいタッチで描かれる。どこか余裕のある「オトナの絵」なのだ。「芝浦汐干之図」を見ても分かるように、「ベロ藍」といわれる藍色の絵の具を使った空や海が、深い印象を残す。繊細な色遣い、庶民の暮らしを写し出す巧みな描写、それらはゴッホなどの西洋の画家にも大きな影響を与えたのだが、それはまた別の稿で触れることにしよう。

歌川広重「月に雁」

北斎と広重が切り開いた浮世絵のジャンルは「風景画」だけではない。花や鳥、虫などの動物を描いた「花鳥画」も、このふたりは人気にした。「月に雁」は記念切手でもおなじみの作品。北斎の描く花や鳥が花弁や羽毛まで緻密かつ正確に描かれているのに対し、広重のそれはすっきりと細部を省略した形で表現されている。北斎が「理系」、広重が「文系」と言われる由縁である。「広重は、年の離れた先輩である北斎への対抗意識があったのでしょうね」と日野原さんはいう。「どうすれば、北斎とは違う表現を生み出せるのか。自分の個性はどこにあるのか。敵愾心ではなく、同じ時期に活躍する絵師としての矜持。そういうものがあったのではないかと思います」

北斎という大きな才能を目の当たりにし、刺激を受けながら広重は自らを磨いていった。「月に雁」の絵の下の方に押してあるのは、広重本人がデザインした「馬鹿印」。「福寿」という文字を馬と鹿の形にデザインしたものだが、わざわざ「馬鹿」と自らを笑うところにも、「画狂人」と称した北斎に通ずる精神を感じたりするのである。

歌川広重「近江八景眺望・近江八景・近江八景一覧」

本所割下水で生まれ、「葛飾の農民」を自称していた北斎に対し、広重は火消同心、つまり御家人の家に生まれた。幼少期から絵が好きで、歌川豊広の門下に入ったのだが、狩野派の町絵師に手ほどきを受けていたともいい、長じては大岡雲峰に南画を学んだともいう。何にせよ山水画などの下地があったのは確かなようで、それが如実に表れているのが「天童広重」といわれる肉筆画の数々。上に挙げた「近江八景」の絵が一例である。広重は天童藩に知己がいたらしく、頼まれて200幅ともいわれる肉筆画を描いた。慢性的に財政難だった天童藩は、藩内の豪商、豪農から献金してもらったり借金したりしていたのだが、謝礼の品として、あるいは借金返済の替わりとして広重の絵を下賜したのだという。

歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」

なぜ、広重は風景画を描くようになったのか。飯島虚心は『浮世絵師歌川列伝』の中で、広重の弟子、三代広重から聞いた話として、こんなことを記している。

〈天保の初年、広重幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬進献の式を拝観し、細に其の図を描きて上る。其の往来行々山水の勝を探り、深く感ぜる所あり。これより専ら山水を描くの志を起せり〉

広重は天保3(1832)年、養祖父の嫡子に家督を譲り、筆一本で身を立てることになった。公用で京都に上る道すがら見た風景が絵師として成功する原点となった、ということであれば面白い話だが、「現代では疑問視されています」と日野原さんはいう。「一介の火消同心がなぜ『幕府の内命』を受けるのか。ちょっと考えにくいですからね」。情報網が現代のように発達していなかった時代、人気者や有名人には様々な「伝説」が生まれ、後世まで語り継がれていった。こんな逸話が残る広重、やっぱり大物なのである。

(事業局専門委員 田中聡)

美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。

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