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Sunday, August 27, 2023

ベイルートのハムラ通り 貧困と物乞いが蔓延する一方で消えゆく ... - ARAB NEWS

  • 露店店主のナイム・モハメド・サレハさん:「この通りらしさは変わってしまいました。住民は去り、訪れる人はいなくなりました」
  • 1975年の内戦勃発とともに、ハムラ通りはパレスチナの大義などのアラブの問題のための戦いと結び付けられた

ナジャ・フーサリ

ベイルート:ベイルートのハムラ通りの歩道には新聞や本を売る露店が5つある。何十年も前からこの歴史的な商業街路を特徴づけてきた一連の同様の店の中で残っているのはこれらだけだ。

数年におよんでいるレバノンの経済危機は、かつての黄金時代には有名な国際的アーティストたちが集まったハムラ通りに、混乱、貧困、物乞いをもたらした。在りし日には、映画館では世界の最新映画が上映され、カフェではベイルートからベトナムまで様々な話題について議論が飛び交ったという。

露店店主のナイム・モハメド・サレハさんはこう話す。「この通りらしさは変わってしまいました。住民は去り、訪れる人はいなくなりました」

彼は話すのを少し止めて60代の男性に新聞を売ってから、「彼のような50代や60代の世代の人たちは紙の新聞を読みます」と続けた。「でも若者は読みません。彼らはスマホの画面をフリップしてウェブサイトを見るようになりました。ニュースは全て指先で表示させて見ているのです。本についても、私はこのカフェの隣(1978年に父の仕事を継ごうと決めて以来の私の場所です)に毎日本を並べていますが、買う人はいません」

南部の町ティブニン出身のサレハさんは1960年代、南部の村々の若者たちの多くがそうしたように、都会でのより良い暮らしを求めて親族と共にベイルートに移り住んだ。

彼と兄弟たちはハムラ通りの家々に新聞を配達する父親を手伝った。サレハさんは1970年代に結婚すると、この通りのカフェ・ド・パリの隣に場所を取った。そこで物売りを続け、子供たちをベイルートのアメリカン大学に通わせるためのお金を稼いだ。彼自身はレバノン大学に行って経営学の学位を取っていた。

サレハさんは語る。「レバノンで、アラブ世界で、全世界で最も有名な通りであるハムラ通りには、かつてはあらゆる所から観光客、政治家、芸術家、知識人が集まっていました。アミン・ジェマイエル元大統領とバシール・ジェマイエル元大統領もこの通りのアミーネ・シンノ氏の法律事務所で弁護士として働き、ホースシュー・カフェで何時間も議論に興じました。『風と共に去りぬ』の公開初日には、観客は午前2時15分まで映画館に留まり、完全に度肝を抜かれたまま映画館を出たものです。彼らはまさにこの通りで買った一流ファッションハウスの服で身を飾っていました。ファイルーズもアーデル・イマームもここで芝居を披露しましたし、ダリダが歌の公演をしたこともありました。人々は肩と肩を触れ合わせながら歩いていました。それほどにまでこの通りは賑わっていたのです」

1975年の内戦勃発とともに、ハムラ通りはパレスチナの大義などのアラブの問題のための戦いと結び付けられた。知識人や諸宗派の多様性は細々と生き残った。

サレハさんはこう説明する。「爆撃が強まると通りから客がいなくなりましたが、停戦のたびに賑わいを取り戻しました。前線となったダウンタウン・ベイルートの商業中心地から逃れてきた人々がハムラ通りに拠点を移しました」

「ベイルートで印刷され私たちの露店で売られた本の中には、大騒ぎを引き起こしたものが一つならずありました。湾岸戦争に関する本や、(エジプトのスパイである)ラーファト・アル・ハガンの本などです。(アルジェリアの作家である)アフラーム・モスタガーネミーの本や、(有名シェフである)シェフ・ラムジの料理本だってそうでした」

「ドイツのデトレブ・メフリス調査委員長がラフィク・ハリーリ元首相の暗殺に関する報告書を発表した日、私の店では新聞が1時間足らずで約4000部売れました。今は10部売れれば上出来です」

ハムラ通りは内戦を生き延びたが、それに続いた大規模な変化は免れなかった。劇場の大半は閉鎖され、アル・マディナだけが残った。映画館も次第に姿を消し、書店がそれに続いた。カフェはファストフード店に変わってしまった。

「コロナパンデミックの時は、売り上げのほとんどがクロスワード雑誌や子供向け雑誌でした」とサレハさんは言う。「2019年の経済崩壊とともに、人々の関心は食料や寝泊まり場所の確保、子供の学費の支払い、安定した電力供給の確保といったものだけになってしまいました。この通りは暗黒と空虚の段階に入ったのです。今来ているのは、アメリカン大学病院で手術を受ける親族に付き添いで来ているイラク人のグループ、それとシリア人です。サウジをはじめとする湾岸諸国から来ていた本好きの観光客たちが懐かしいです。イラク人もイラン人もそうではありませんから。ベイルートやハムラ通りに来てみれば分かりますが、彼らの本に対する関心はゼロに近いです」

「経済危機以前は月に40~50冊売れていました。しかし今は、本の値段が100万レバノンポンド(約10ドル)もするのでレバノンの人々は本を買いたがらず、月に2冊しか売れません」

通り全体がもはやかつてのような高級市場向けの盛況な商業中心地ではなくなったとサレハさんは説明する。「店のウィンドウに飾られている靴は、かつてはイタリア製やフランス製でしたが、今やアジア製です。店先では服の在庫処分セール開催中という張り紙を多く目にします。経済危機が始まって以来張り紙がしてあるのに、在庫処分がまだ終わっていないのです」

「ハムラ通りに来る人々からの苦情で最も多いのは、物乞いやホームレスに関するものです。以前は午後7時まで開いていた店も、今は午後4時に閉まります。夜の客層は昼の客層と違うからです。午前中に来るのは、会社員、医者、患者、大学生、そしてハムラにまだ残っている銀行や機関で働く人々です」

ただ、一部の建物では市民団体の事務所が活発に活動しているという。「確かに彼らは通りにいくらかの活気を与えていますが、彼らの活動は困窮者の支援に限られており、それ以上のことはしません」とサレハさんは言う。「だから、ハムラ通りの過去の栄光と輝きを取り戻す役には立たないのです」

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