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Friday, November 4, 2022

「日本史王」本郷和人のアート入門! 「茶の湯と薩摩」展 鹿児島・黎明館(下) 武士の命「土地」よりも大事な茶… - 読売新聞社

「日本史王」本郷和人です。僕は東京大学史料編纂所で『大日本史料』第5編の編纂を担当しています。第5編というのはざっくり鎌倉時代を範囲にしています。鎌倉時代の武士にとって一番大事なものはなにでしょうか? 土地(所領)ですよね。自分の土地の所有権を認めてくれた恩人のために命をかけ、勝利すれば相手の土地が分配されるのがルールです。
ところが、戦国時代になると、土地よりも価値の高いものが登場します。「茶道具」です。
前回に引き続き特別展「茶の湯と薩摩」を、担当した鹿児島県歴史・美術センター黎明館主任学芸専門員の深港恭子さんの案内で紹介していきます。

都道府県の半分相当の茶壺

左が「唐物茶壺 銘 深山」(中国・元~明時代・14~15世紀 松井文庫)

こちらは薩摩のお隣の熊本藩の重臣である松井家に伝わる「唐物茶壺 銘 深山みやま」です。
細川家で一番の武将だった松井康之は、朝鮮出兵のある戦いで一番乗りを果たす武功をあげました。豊臣秀吉はそれを高く評価し、松井に石見国(島根県)の半国を与えて、細川家から独立した大名に取り立てようとしました。しかし、松井は細川家への忠義からこの申し出を固辞します。では代わりに、と秀吉から与えられたのがこの茶壺です。茶道具ひとつが、国(現在の都道府県)相当の土地に匹敵した実例です。

猛将・島津義弘 自信の「白」

「白釉御判手茶碗 銘 すはま」(薩摩 江戸時代・17世紀 個人蔵)

続いて紹介したいのは、前回触れた薩摩の猛将、島津義弘が関ヶ原後に創作した白い茶碗「銘 すはま」です。義弘は好みものに判を押して窯で焼かせ、仕上がりの悪いものはたたき割って捨ててしまったそうです。それだけに義弘が作った作品は貴重でした。同じく展示されていた、18世紀後半に成立した『加治木古老物語』には、身体の一部を失ってでも手に入れたい品と書かれていました。

義弘の判が押されている茶碗はほかにもあり、なぜかみな「判」が鮮明でなく、一部が欠けていました。ギュッと強く押さないように、あえて力加減を調整した義弘なりの美意識なのかもしれません。

「肩叩き」に使われた肩衝

江戸時代の後半、今度は茶道具が、薩摩藩主の引退に使われました。島津斉興なりおきの後継をめぐって「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動が起きました。斉興は引退を拒否し続けましたが、嘉永3年(1850年)に、江戸城で12代将軍・徳川家慶から直接、名物の茶入「朱衣肩衝」を渡されました。武家に茶器を下賜することは肩叩き(隠居を命じること)も意味することから、将軍が直に引退を求めていることになり、斉興はようやく家督を譲りました。

この茶入「朱衣肩衝」は中国・元時代(10~14世紀)に作られ、千利休の茶の湯の師匠である武野紹鴎、徳川家康、紀州徳川家、徳川将軍家に伝来した名物でしたが、明治維新以降に売り立てられて、今はどこにあるか分からないそうです。

島津家歴代当主に受け継がれてきた「八景釜」(室町~江戸時代・15~17世紀 尚古集成館)と、「文琳茶入 銘 薩摩文琳」(江戸時代・17世紀 九州国立博物館)

もしも元寇のときに焼き物が高付加価値だったら?

土地よりも身体よりも、茶道具のほうが価値がある。僕は、想像しました。「もしも、鎌倉時代にも焼き物がこれほど価値があったら」と。蒙古襲来(元寇)で、九州の御家人たちは命をかけて勝利しましたが、防衛戦だったため、鎌倉幕府から新たな所領の分配はありませんでした。土地が増えなかった御家人たちの不満が積み重なった結果、北条氏は滅亡するのです。

美術展ナビの担当記者さんから「茶道具の価値を理解した戦国時代は、鎌倉時代よりも文化度が高かったのですか?」と聞かれましたが、どうでしょうね。織田信長や豊臣秀吉ら天下人の「力業ちからわざ」のようにも僕は思えます。

薩摩の白い陶器がヨーロッパ人に衝撃

「大名茶への展開」会場風景

戦国時代の猛将で関ヶ原以降は作陶に熱中した島津義弘から薩摩焼は始まりました。薩摩焼の特徴のひとつは、陶器なのに白いこと。白い土は、鹿児島の有名な指宿温泉のある南薩摩地方でしか採れない特別な土でした。

「色絵梅枝文茶碗」と「錦手鶴亀文水指」(いずれも薩摩 江戸時代・19世紀、尚古集成館)を見る本郷さんと深港さん

深港さんによると、こうした白い素地に華麗な絵付けのある陶器が19世紀後半にヨーロッパに渡り、日本を代表する美術品となり、「『サツマ』無くして東洋美術のコレクションは完成しない」とまで言われたそうなのです。

大航海以来、ヨーロッパでは長く、中国で作られた白い素地に鮮やかに彩色された磁器が「シノワズリー」として、とても珍重されてきました。ところが、中国が海禁政策をとると、磁器の輸入が激減します。ヨーロッパでの「シノワズリー」の需要は高いので、代わりに日本の磁器が入ってくるようになります。そこでヨーロッパ人の趣味がいきなり渋い「ジャポニスム」に変化したわけではありませんでした。

まず、中国磁器に似た肥前産の磁器(有田焼)が、中国らしいものとして受け入れられます。17世紀後半頃のことです。これをきっかけに、ヨーロッパでも磁器が作られるようになるのです。しかし、日本産の中でも薩摩焼のような白色の陶器は、19世紀後半になるまでヨーロッパの人たちには認知されていませんでした。

そして1867年(慶応3年)に開催されたパリ万博に日本が初めて参加。徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展しますが、薩摩藩の絵付けの施された白い薩摩焼にパリの人たちは魅了され、日本の陶磁器のことを「サツマ」と呼ぶようになったそうなのです。

つまり、19世紀に入って初めて出会った日本の美しい焼き物、それが薩摩焼だったのです。とは言っても、薩摩焼は「白い」こと自体に価値があるので埋め尽くすような絵付けをしていません。きっとヨーロッパ人も最初は物足りなさを感じたことでしょう。しかし、時間を経るにつれて、ヨーロッパ人の審美眼も鍛えられて「中国の基準とは別の美があるのではないか」と気づいていきます。

19世紀後半のパリと言えば、「印象派」の画家たちが、浮世絵の芸術的な価値を見いだしたことが有名です。さきほどまで戦国時代について話していた深港さんと、じゃあゴッホは? ゴーギャンは?と、話はどんどんと広がっていきました。

特別展「茶の湯と薩摩」
会期:2022年9月22日(木)~11月6日(日)
会場:鹿児島県歴史・美術センター黎明館(鹿児島市城山町)
開館時間:午前9時~午後6時(入館は午後5時30分まで)
観覧料:一般800円、大学生500円
詳しくは黎明館の展覧会公式ページ(https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/chanoyu.html)へ

「日本史王」本郷和人のアート入門

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