源義経の軍が一ノ谷へ向かう際に通った「義経道」(写真:Camellia/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。源頼朝の弟で「戦の天才」と呼ばれた源義経。その象徴的な戦いの1つとして語り継がれるのが「一ノ谷の戦い」で見せた「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」ですが、どうも後世の創作の可能性が高いようです。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。
平家物語に描かれている「鵯越」
史上有名な一ノ谷の戦いの開戦前の情景を古典『平家物語』は次のように描く。
「寿永3(1184)年2月6日の明け方、源義経は1万の軍勢を2手に分けて、土肥実平に7000の軍勢を付けて一ノ谷の西方に向かわせた。そして自身は、3000騎で、一ノ谷の背後の鵯越を攻め下ろうと、丹波路から、平家の陣の後方に回られた。
しかし、従軍する兵士たちが『鵯越は有名な悪所。同じ死ぬなら敵と戦い死にたい、谷や崖から落ちて死にたくはない。誰かこの山の案内者はいないものか』と口々に言うので、武蔵国の住人・平山季重が進み出て『この季重、案内できます』と申し出た」(『平家物語』を筆者が現代語訳)。
丹波・播磨国境にある三草山の平家の防衛ラインを突破した義経軍は、さらに東進して、一ノ谷の後方・鵯越から平家を攻撃したと言われる。『平家物語』には、この鵯越は、急な崖が進路を阻む難所として、兵士をも恐れさせたと書かれている。その難所への案内者として名乗り出たのが、平山季重であった。
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