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Saturday, March 27, 2021

原発事故でふるさとを追われた。でも、ゴルフがあった。――福島「だてごるふ練習場」と「絆コンペ」の10年―― 【パーゴルフ プラス|PAR GOLF PLUS 】 P1/2 - パーゴルフ

最初に動き出したのは、当時の副支配人だった長沢友子さんだ。震災直後、日本中が「自粛」の二文字に縛り付けられていたあのころ、“気晴らし”は喫緊の課題だった。もちろん、何をやったところで、心底、気が晴れることなどない状況だったし、それは今も続い
ている。だからこそ、本当に、一瞬でもいい、息抜きが必要だった。
長沢さん率いるだてごるふは、まず、地元の職業訓練施設の人たちを招待した。目的は、運動不足の解消と気晴らし。実施すると大好評だったうえに、施設長が飯舘村の出身ということが分かった。

ここであらためて振り返るが、浪江町は津波で沿岸部は壊滅。東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、町民は散り散りになった。飯舘村は、当初、他地域に比べれば地震動による被害はそこまで大きくはなかった。しかし震災から1カ月後、原発事故で全村が「計画的避難区域」に指定された。それまでの暮らしはすべて奪われ、住民は散り散りになった。多くが狭い仮設住宅に住むようになり、多くがひきこもった。
もちろん行政も何もしなかったわけではない。毎日のように編み物や体操をしようと気分転換を促してはいた。ただ、日替わりボランティアの呼びかけに、誰もがホイホイと応えられるわけもない。被災した者だけに分かる痛みが、日々、重くのしかかり続けていた。そんな状況は、自身も被災者であった長沢さんにも痛いほど分かったのだろう。共に行動した稲月さんが振り返る。
「長沢さんが、この練習場の近くにいる仮設住宅の居住者のために何かしなくちゃって、思ったところから始まりましてね。あのころはどこもかしこも自粛、自粛だったけど、健康維持のために体は動かしたって文句はいわれないでしょ。狭い仮設住宅にこもりきりな
居住者さんにとって運動は不可欠なんですよ。でも、きっかけがない。それで、仮設の自治会長さんたちと話を進めていったんです」

そうして、だてごるふスタッフと仮設住宅の自治会長で浪江町から避難した小澤是寛さんらと話を進めた結果、12年4月9日「GOLF de 健康 飯舘村民の集い」と題する企画を実施した。仮設住宅に暮らす住民を無料で招待し、道具も用意。ゴルフの練習と交流の場を提供した。それから約1年後、まだ仮設住宅に暮らしていた彼らを取材したが、彼らがあまりに明るくて驚いた。
しかし一方で、ある住民の「一球ごとに“バカ野郎”って思いながら打つんだよ」という言葉が胸に突き刺さった。
震災前、彼らのほとんどは農業や酪農など、第一次産業に従事していた。震災後、彼らは家も、家族との暮らしも仕事も奪われてしまった。人によっては、それまで住んでいた家の、玄関程度の広さしかない仮設住宅に暮らすようになり、コミュニティから分断された。理不尽という言葉では到底言い表せない状況。そんな日々の中に、ゴルフがあったのだ。8年前、練習場で長靴姿の女性が、こんなことを口にした。
「当たっても当たらねくても気分爽快だかんな」
ゴルフを介して、何かを取り戻している、そう感じられた。

この無料イベントでゴルフを経験した住民たちは、「これからは有料がいい」と申し出た。練習場に負担をかけすぎたくない、きっかけをもらってから先は、普通の暮らしと同じように払うべきものは払う、という姿勢だった。“普通”を根こそぎ奪われた仮設住宅住民の“普通”を願う気持ちだった。
それから2カ月後には、同じ伊達市内の霊山町にあるパーシモンカントリークラブでコンペを開催した。以来、回を重ねたが、20年にはコロナ禍で2回が中止になった。翌21年2月13日の福島沖地震では、ずっと会場となってきたパーシモンCCでクラブハウスに大きな被害が発生してしまった。(次ページに続く)

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確かに

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