「分岐」「合流」が多い首都高
首都高速道路(首都高)は交通量が多く、スピードの速い車もいるため、運転に慣れていても注意が必要な道路です。確かにこの上なく便利で、筆者(昼間たかし、ルポライター)も時々利用していますが、ヒヤッとなることはよくあります。 【ひと目でわかる】首都高「右側出入口」の場所 首都高で困惑するのは、なんと言っても「分岐」「合流」がとても多いことです。 分岐すると当然戻れないので、表示を見落とさないようにドキドキしながら走らないといけませんし、道を間違えかけたドライバーが危険な車線変更をしてくることもあります。 最近は減ってきましたが、「あおり運転」もなくなったわけではないので、ノロノロとマイペース運転するわけにもいきません。
ドライバーに染みついた「右側 = 追い越し車線」
とりわけ、運転に慣れないドライバーを困惑させるのが出入口です。 一般的に高速道路は「走行車線」「追い越し車線」から成り、出入口は比較的低速な車が走る走行車線(左側)とつながっています。ところが首都高は、右側の車線と出入口が接続しているところが非常に多いのです。 首都高では右側を追い越し車線と定めていませんが、ドライバーは高速道路の右側が追い越し車線で、一般道でも右側は比較的高速な車が走る――という意識が染みついているため、適応は簡単ではありません。しかも出入口が右側で統一されていればよいのですが、そうとも限りません。 首都高を建設・管理する首都高速道路(千代田区霞が関)のウェブサイト「首都高のミカタ」には出入口の詳細なマップが掲載されていますが、すべてを覚えるのはほぼ不可能です。首都高に入る前に、せめて予定ルートの出入口を確認するくらいしかできないのが現状です。
背後にあった戦後復興
なぜ首都高はこのような設計になったのでしょうか? 結論を先に言うと、建設を急いだことで、使える用地が限られてしまったためです。 東京都内は、戦後復興が本格化した1950(昭和25)年頃から渋滞が深刻な問題となり、1965年頃にはパンク状態になるとされていました。そのため首都建設委員会が1953年、交通まひを防ぐために「首都高速道路に関する計画」を勧告。1959年には首都高速道路公団(現・首都高速道路)が設立され、1962年に京橋~芝浦間が1号線として開通します。 建設にあたっては、買収が極力不要な用地を確保することが目指されました。そのひとつが河川の上を通過するというものです。 近年は日本橋付近の首都高の地下化が決定するなど、河川の上を首都高が通過することが「景観を壊す」と問題視されています。しかし、計画当時は河川の上を通過することや、河川を暗渠(あんきょ。地下水路)化することは、むしろ歓迎されていたのです。
からの記事と詳細 ( 一瞬ヒヤッ! 首都高はなぜ「右側」の出入口が多いのか(アーバン ライフ メトロ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
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確かに
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