取材・文:井田愛莉寿/マイナビウーマン編集部、撮影:masaco
「今日ですか? もちろんチャリで来ました(笑)」
最高にノリが良くて、どこまでも人懐っこい。わたしの質問に、笑顔で冗談を返す彼のことを、本当はどこまで知っているのだろうか。そう自問して、取材中恥ずかしくなった。
ずっと知っているつもりだったことのほとんどは憶測や決めつけで、実際は何も知らなかったからだ。
彼の名前は、熊田勇太。料理人として働く25歳。
「え、誰?」と思った、そこのあなた。大丈夫。話を聞けば、きっと記憶の片隅にいる彼の存在を思い出すはずだ。
そう。今日紹介する選択肢は、日本一有名なプリクラに写っていた“あの人”の話。
すべては「一枚のプリクラ」から始まった
「あれは、たしか中学生だったかな。同じ少年野球チームにいたヤンチャな奴らと意気投合して仲良くなって……。当時、みんな暴走族に憧れを持っていて、チャリンコをそれっぽくアレンジして乗っていたんですよ。
それで、『チャンプロード』という雑誌を見ながら、そこに載っていた『GALFY(ガルフィ)』っていうヤンキー服を遠くの街まで買いに行くことになったんです。もちろん、チャリで(笑)」
そのチャリンコで彼らが向かった先、“とある事件”が起こる。
「そのために前泊までして集まるくらいの意気込みだったんですけど、中学生の僕らには結局高くて買えなかった(笑)。で、仕方ないからゲームセンターに行ってプリクラを撮ることにしたんです。あのころはプリクラも人気で列ができていたから、落書きの制限時間が短くて……。焦った僕が咄嗟に書いたんですよ。はい、そうです。あの文字を」
ヤンチャな男の子4人が、よくあるヤンキーポーズで写ったプリクラ。その上に彼が書いたのは、「チャリで来た。」の文字。たった7文字が、まさかここまで人生を変えるとは。
「ただ単純にチャリで来たから、そう書いただけなんですけどね。それがある日突然、モバゲーやmixiのアカウントから流出して、友達に『お前、2ちゃんねるに晒されてるぞ!』って教えてもらいました。でも、全然実感がわかなかった」
「ほんと最悪の出来事でしたよ」なんて話すわりに、彼のたれ目はさらに目尻を下げて、それはもう楽しそうに笑う。
「ネットの拡散力はマジですごくて、僕の住所が出回ったり、写真を見た他校の不良たちが学校まで訪ねてきてケンカになったり。勝手に『バカ画像』なんてタイトルの雑誌にも載せられました。一時はネットに『凶悪殺人犯だ』なんて書かれたこともありましたからね」
かの有名なプリクラは、もはや知らない人のほうが少ないだろう。彼と同世代のわたしは、オンタイムでその存在を知って、名前も知らない男の子たちのことを「チャリに乗って移動するダサいヤンキー」だと勝手に決めつけていた。
でも、彼の本質はそれで正しいのか。
「最悪な出来事の真相」を打ち明けた理由
時代はガラケーからスマホに代わり、拡散の発端になった当時のサイトも今じゃだいぶ廃れてしまった。そうしてほとぼりが冷めたころ、彼はなぜかテレビ画面の中にいた。
「チャリで来た。」の“あの人”として、テレビ朝日の人気番組『激レアさんを連れてきた。』に出演。なんと、そこで出来事のすべてを告白していたのだ。
「一度取材を受けたニュースサイト経由でオファーをいただいて、受けるかどうかはずっと悩んでいたんです。だけど、そのとき相談した友達に『(出演によって)世間からどんなに悪く言われたとしても、みんな他人のことなんて3日で忘れるよ』と言われました。それに『今は一生懸命頑張っているんだから大丈夫。ちょっとやってみれば?』って。
僕にとってはずっと消し去りたい過去だったはずなんだけど、たしかにそうだよなと。不格好だろうがなんだろうが、新しい挑戦は悪いことじゃないと思えたのがきっかけです」
だけど、その向こう側に何千万と人が存在するテレビで、自分の恥ずかしい過去を打ち明けるのはリスクだらけだ。再び後ろ指をさされて、バカにされる毎日が待っているかもしれない。そんな中、なぜ挑戦しようと思ったのか。そもそもなぜ挑戦が必要だったのか。
「僕の好きな言葉で『アクションを起こさなければリアクションは起きない』というものがあって。常にチャレンジや行動することに意味があると思っているからですかね。
というのも、僕には元々夢があって、それを叶えるひとつの足掛かりになるんじゃないかと思ったんです」
「チャリで来た。」に写る彼が、密かに抱いた夢
話は、中学3年生のときにさかのぼる。
「行ける高校がなかったんですよ、僕。まわりの奴らは通信制の高校に行こうとしてたけど、自分はそこでやりたいこともなかった。
『やばい。どうしよう』と思っていた矢先、昔から食べることや料理が好きだったのを思い出したんです。親が仕事の日は自分で料理を作っていたから。それで、中学を卒業したら調理師専門学校へ行って、飲食店で働こうと決めました」
これこそ、彼が料理人になったきっかけだ。たくさんのことを吸収する日々を送り、19歳のころには地元のビストロで店長を任されるまでに成長した。
「フレンチで12年くらいシェフをやっていたオーナーが、それを一般家庭用に崩して作ったビストロでずっと働いていました。料理のイロハを教えてもらった場所ですね。
当時の僕は学ぼうと必死で、さまざまな飲食店に通って研究を重ねていました。料理だけじゃなく、『ライトのつけ方はこうするとおいしく見えるんだ』とか、『接客のこういうアプローチは面白いな』とか」
ひたむきな熊田さんの姿を、当時のオーナーはちゃんと見ていてくれた。
「『そこまで頑張っているなら店長をやってみろよ』と提案してもらえたんです。まわりは年上の料理人ばかりだったから、認めてもらうために誰よりも勉強しましたね。イベントを考えたり、作ったこともないチラシを一から作って全部自分でビラ配りしたり」
そして、がむしゃらに突き進んだ数年間は、早くも理想と現実のギャップを彼に見せつける。
「そんな中で、食事を通していろんな人たちに喜んでもらいたいという夢を抱くようになったんです。家族で囲む食卓だったり、友人で囲む食卓だったり。合コンで囲む食卓だってそう。食卓って幸せなものだと思うから、それを提供できるようになれたらいいなって。
反面、飲食業の負の連鎖も目の当たりにしました。飲食業は賃金が安い、そのせいで働く人は自分の仕事にプライドが持てない、だから離職率は高い……っていう」
25歳の料理人は「挑戦」を続ける
2019年、彼は長い間働き続けてきたビストロをやめる決断をした。理由は、自身が直面した負の連鎖をその手でなんとかしたいと思ったから。
「独立は、25歳までに絶対するって決めていたんです。僕みたいに飲食の世界へ夢を持った若者たちが、胸を張れる職場や職業にしていきたいという目標のために。料理人やウェイターが年収1,000万円を稼ぐスタンダードだって作りたい。
そういう意味では、あのプリクラを通して僕がメディアに露出したり、存在を知ってもらえたりした出来事も価値のあることでした」
伝えたい思いや夢がある。だからこそ、どんな挑戦も必要だったわけだ。そんな彼が大切にしている「選択の軸」を聞けば、こんな答えが返ってきた。
「僕の軸は夢ですね。夢しかないです。だって、夢って終わらないじゃないですか。たとえ目標達成したとしても、その先がある。社会的価値のある人になりたいし、影響力のある人になりたい。伝えていける人にだってなりたい。
あのプリクラが出回ったころは『自分が生きていてなんの意味があるの?』と思うこともあったけど、今は違う。夢のために自分がこういう活動をしているって、もっと多くの人に知ってもらいたいんです」
「最悪だと思っていた過去だけど、やっぱりあのプリクラがあってよかったです。それも含めて自分の歩んできた道なんで」
そう言い残し、熊田さんはタクシーに乗って夜の街へと消えていった。取材現場へは「チャリで来た」と冗談交じりに話していたけれど。
そうそう。『激レアさん』に出演したあと、Yahoo!ニュースのトップに載った彼の記事には、4,000件ものコメントが寄せられたらしい。その全部が温かいものだったとか。最初は嘲笑から始まった拡散かもしれないけれど、いつしか元気を与える笑いの種として、それは広がっていったのだと思う。
あのプリクラに写る熊田さんはどこか楽しそうで、まっすぐで。大人になってだいぶしっかり者になっていた彼だけど、そこだけは今も変わらないままだった。
チャリで辿り着いた夢と人生はどこまで続くのか。タクシーに乗り換えたって、きっとその道のりはまだまだ長くて、きっとまだまだ面白い。
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April 30, 2020 at 09:10AM
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