マンハッタンの秘密基地からはじまった
「俺たちはそろそろ作られた道化はやめるべきだ。俺たち自身が楽しめてその役になりきれる。そんなことをやろうぜ、ダニー。俺はお前と一緒に何かやりたいんだ。何かこう最高にハッピーなれることを!」
1978年4月、NYマンハッタンのロックフェラー・プラザ30番地にあるRCAビルの17階。その日の夜も、ダン・エイクロイドとジョン・ベルーシは、フロアの片隅にロッカーを並べて作った自分たちの秘密基地で、75年10月の放映以来、全米で最もヒップな番組となっていた『サタデー・ナイト・ライブ』(以下SNL)の新しいアイデアや台本書きに余念がなかった。
脱ぎ捨てられた洋服や膨大な殴り書きのメモ、煙草の吸い殻やオモチャの模型で埋められた薄汚れた空間から声が響いた。
「そうだ、ブルース・ブラザースだ!!」
全米横断ブルース・ブラザースの旅へ
それは『SNL』のファーストシーズンの終わり、1976年の夏に生まれた言葉だった。エイクロイドとベルーシは休暇を利用してアメリカ横断の旅に発つ。
高視聴率や高額なCM枠はTV局NBCにとっては最高なことだったが、二人にはそんなことはどうでもよかった。都市部よりも本当のアメリカ=中西部で自分たちが受け入れられているか、どうしても確かめたくなったのだ。労働者階級(ブルーカラー)こそがアメリカの血と汗と涙であることを知っていたのだ。
運転はスピード狂のエイクロイドが担当。ベルーシが助手席に収まった。二人は『路上』のサル・パラダイスとディーン・モリアーティのようにひたすら車を走らせた。
それは「ブルース・ブラザースの旅」と名付けられた。モーテルやショッピングモールやダイナー、ラジオから聴こえる土地の人々の声や喋り方、素晴らしき音楽。アメリカのスモールタウンを通り過ぎながら、二人は社会の底辺に生きる風景を吸収していった。
ある時は町の大学に立ち寄り、学生たちが気づいてくれることを期待したが、誰も二人のことを知らなかった。
「俺たちはもっと仕事しなきゃならねえ!」
メンバーたちと深めた信頼と絆
ブルース・ブラザース計画の話し合いの後、ベルーシはすぐにメンバー集めを開始。ベーシストのドナルド・“ダック”・ダンは真夜中の電話で起こされた。
「よお! 俺はジョン・ベルーシ。君を金持ちの人気者にするから、NYのリハーサルに来てくれねえか?」
集められたメンバーでのリハーサルが終わり、全員が確信した夜、ベルーシの家でパーティが行われた。すると、ベルーシはドナルドとギタリストのスティーヴ・クロッパーを地下室のボロボロのステレオ部屋に誘い、上機嫌のままソウルの名盤を次々と聴かせた。
ターンテーブルに乗ったのは『ドック・オブ・ザ・ベイ』。しかし、二人の表情が悲しみに変わっていくのがベルーシには分かった。
「何か悪いことしたかな?」
「いや……俺たちは長いこと聴いてなくてさ。オーティスの事故以来、彼のレコードには一度も針を落とさなかったんだ」
スティーヴが静かに呟いた。オーティスと一緒に演っていた彼らに失礼なことをした。そう後悔したベルーシがレコードを止めようとすると、ドナルドが言う。
「いや、そのままでいいよ……いい音じゃないか。最高だよ」
それから三人は古いプレーヤーを囲んで、オーティスのソウルに身体と心を揺らし続けた。
以来、『SNL』でのお披露目前のウォームアップを兼ねて、みんなでR&Bやブルースを歌い演奏した。ブルース・ブラザースとは、メンバー全員の信頼と絆を象徴する言葉に他ならなかった。
数週間後、エイクロイドとベルーシは、黒い衣装と帽子とサングラスで番組に初登場。さらに78年9月にはLAでのデビューコンサートが大成功し、楽屋には花束や祝電の嵐が吹いた。
有名人たちも続々とシャンパンを持って駆けつける中、スタッフやメンバーがはしゃいでいるところに、あのプレイボーイ誌のオーナー、ヒュー・ヘフナーのオフィスから電話が入る。
プレイボーイのパーティに二人を招待したいとの打診。だが、バンド自体が招待されていないことを知ると二人はこう言ったという。
「俺たちはバンドも含めて全員で“ブラザース”なんだ。二人だけじゃ行かねえって、ミスター・ヘフナーにそう伝えてくれ」
伝説の映画とベルーシの死
ブルース・ブラザースのファースト・アルバム『Briefcase Full of Blues』は、79年1月に全米ナンバーワンに到達。ディスコ全盛期にあって突如ブルースが復活したのだ。それくらい彼らの影響力と人気は高まっていた。
映画化の話はハリウッドの重役との電話1本で決まったという。この時、エイクロイドは300ページにも及ぶ脚本を自ら執筆。学生時代に取得した犯罪学や心理学、警察の知識、アンターグラウンドな連中との付き合いなどがフルに発揮されることになった。
しかし、撮影は79年8月からスタートしたものの、ベルーシの重度のドラッグ常用が災いしてスケジュールも予算もオーバーしてしまう。
シカゴ市とイリノイ州の好意的な協力の反面、監督のジョン・ランディスはベルーシとの撮影には疲労困憊したらしいが、それでもベルーシのカリスマ性は疑いようもなかった。エイクロイドはこのトラブルまみれのパートナーを擁護し続けた。
映画『ブルース・ブラザース』は1980年に公開されると大ヒットを記録。無表情なユーモアや破壊的な冒険は、それまでのコメディになかった革命だった(ちなみに映画では二人はサングラスを掛けっぱなしで、最後の最後になってベルーシが一瞬だけ外すのが泣ける)。
特筆すべきは映画全編に貫かれた本物の音楽への愛だ。レイ・チャールズもジェームス・ブラウンもアレサ・フランクリンもこの映画で若いファン層をつかんで息を吹き返した。
そして1982年3月5日、ハリウッドのホテルでベルーシ逝く。ドラッグの過剰摂取が原因だった。享年33歳。死ぬ間際まで自ら出演する映画の企画に取り組んでいたという。
出逢い以来、実の兄弟のようであり、ビジネスのパートナーシップであり、親友でもある。あらゆるものを一緒に追求していた二人の素敵な野蛮人。相棒のダン・エイクロイドは言った。
「ブルース・ブラザースが終わった後、ジョンはもう別のことをやりたがっていたんだ。今度は真面目な役でみんなをあっと言わせたいと。あいつはもがいていた。一方で次々とやってくる連中に無愛想にできなかった。本当にみんなを喜ばせるのが大好きな心優しい奴だったんだ。あのでっかい笑顔とでっかいエネルギーの下には、いつも感じやすく傷つきやすい彼がいた。ジョンにとって人生は大きなごちそうだったんだよ」
文/中野充浩 サムネイル/shutterstock
参考・引用
「ジョン・ベルーシ・インタビュー・ストーリー」(室矢憲治 著/Switch1986年8月号)、「ザ・ベスト・オブ・フレンズ」(Switch1986年8月号)
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