Text by Léo Pajon
世界の美食家のあいだでもっとも名前が知られた日本人シェフといえば、松久信幸氏だ。米ロサンゼルスに開店した「Matsuhisa」がセレブのあいだで大人気となると、ロバート・デ・ニーロの誘いを受けて、ニューヨークに「NOBU」を開店。いまではホテルを含む系列店が60店舗を超えている。多忙を極めるオーナーシェフの実像に、仏紙「ル・モンド」が迫った。
数ヵ月にわたって、我々は松久伸幸、通称ノブとの接触を試みていた。共同出資者であるロバート・デニーロとの時間もほとんど取れていないのだから、この73歳の日本人ビジネスマンはインタビューを受けないだろうと、料理人たちは口を揃えて言った(これは事実ではなかった)。
広報によると、彼は1年のうち少なくとも10ヵ月は世界中を飛び回り、世界中で展開する60あまりのレストランやホテル(NOBUとMatsuhisaの2種類ある)を訪れているという(これは事実)。
スタッフたちは、ノブは朝食は茶碗一杯の米と味噌汁だけで満足する禁欲的な人物であり、夜明けとともに起床し、ストレッチをして長時間の仕事に備える勤勉なスタハノフ労働者であると描写する(クライアントたちは彼の部屋でストレッチの解説書を見つけたという)。
伝説が膨らむにつれ、新宿──東京の経済的中心地である──の寿司屋で料理人を始めて、世界的な料理帝国の創設者になったこのシェフは、ますます手の届かない存在に思えてくる。彼にまつわるミステリーは、曖昧な人物像を作り出し、まるで刺身のカイザー・ソゼ(映画『ユージュアル・サスペクツ』に登場する謎めいたボス)である。ところで、彼はマーティン・スコセッシの『カジノ』をはじめ、さまざまな映画に出演していなかっただろうか?
ノブはフィクションの存在だった。だが、素晴らしい昼食が現れると、その実態に触れることができた。伝説よりもさらに魅力的な人間が。
待ち合わせはMatsuhisa Parisだった。シャンゼリゼ大通りの近く、ロワイアル・モンソー・ラッフルズ・ホテル内にシェフがオープンした店だ。フィリップ・スタルクのデザインによる鮮やかな内装に彩られたレストランに足を踏み入れるとすぐさま、日本食レストランでよくあるように、スタッフ全員に「いらっしゃいませ!」と声を掛けられる。まだ慣れていないので、その声が響くたびに、私たちは飛び上がることになった。
ラグジュアリーホテルにできたこの日本の飛地には、金箔も大理石もない。しかし時折、リッチな客──このホテルはカタールの企業グループに属しており、PSGの選手たちが連れ立って来ることもある──が家族連れで訪れては、気取らない雰囲気のなかでソファーに腰を落ち着けている。メニューの値段は均一ではなく、カッパ巻きが一皿6ユーロに対して、シグネチャーの味噌ソースに漬けられ、口のなかで溶ける銀鱈(アラスカ産)は54ユーロに達する。
ペルーでの挫折
ノブはカウンターに座っていた。痩身で、白いシェフコートを着て、ソフトな黒のパンツと大きなスニーカーを履いている。振り向くと、スッキリした顔立ちで、若々しく、ブッダのように長い耳たぶをしている。そして、インタビューのあいだ、彼のキャリアにおけるもっとも暗い時期を語るときであっても、決して笑みを絶やさなかった。
しかも、暗い話はひとつではない。
「子供の頃は埼玉にいて、いつも父親のバイクに乗せてもらい、後部座席で父親にしがみついていました。8歳のある日、私は父について行こうとしましたが、遠くに行くので連れて行くことはできないと言われたんです。その日、父は事故に遭い、ほどなくして病院で亡くなりました」
材木商の仕事で海外に行くことが多かった亡き父親は、ノブにとっての英雄であり、写真を肌身離さず持ち歩いている。写真のなかで、父はガイドの現地人と一緒にパラオの椰子の木の下でポーズをとっている。ノブユキ少年はこの写真を見つめては、いつか自分も世界を旅すると心に誓った。
別の決定的な体験については、著書『Nobu: A Memoir』で語っている。まだ子供の頃、彼は寿司屋に連れていってくれと兄に頼んだ。彼はそこで、すべてが魅力的な別世界に出会った。魚を捌く料理人の優雅さ、供された料理の眩しさ、米の芳香。
「世界で最も素敵なものでした」と彼は説明する。「そのとき私は寿司職人になることを決心したんです」
彼はすぐに不満を感じるようになる。
「儲けをもっと出すために料理の質を犠牲にしろと言われたので、辞めました」
この経験は彼に満足感を与えなかったが、たとえば刺身にハラペーニョを添える──彼の店ではお馴染みのメニューだ──ように、伝統と現地のものを融合させることを学んだ。
ノブは、簡潔で実用的な哲学も磨き上げた。「私には3つの目標しかありません。良い料理と良いサービス、良い雰囲気を提供することです」
「NOBUで出されるカンパチは日本沿岸で獲られたものですし、タラやタラバガニはアラスカです。どれも毎週仕入れています」と、NOBUバルセロナ店の料理長セルジオ・マルチネスは言う。
しかし今日では、グループとして少なくとも80%の食材を地元産にする努力をおこなっている。たとえば、バルセロナ店では、タコ、牡蠣、イカはスペイン産だ。ワサビでさえ、レストランの近くで栽培されているのだ! マルチネス店長はこう説明する。
「地元の食材に代替するのは、質が同じである場合のみです。この点についてノブは決して妥協しません」
南米での経験のあと、1977年、28歳のときにノブはアラスカのアンカレッジで自分のレストランを始めた。50日間ぶっ通しで休みなく働き、感謝祭だけ友人宅で祝うことを自分に許した。その夜、電話が鳴った。
分電盤故障が原因の火災で、若き店主は破滅してしまう。
「私はほぼすべての財産だけでなく、自分への自信も、夢も失いました。自殺しようともしました」とノブは無表情で振り返る。「私を立ち直らせてくれたのは家族です。妻のヨウコと2人の子供が再出発する力を与えてくれました」
彼のグループもいまでは家族のようなものである。彼の周囲を見回し、説明する。「私は1日に数百人とすれ違います。そのおかげで第六感が鍛えられ、人々を『感じる』ことができるようになりました。私は金銭をもたらしてくれるだけではなく、長い期間にわたって関係を続けていけるパートナーを探しています」
パートナーの一人、ギリシア出身のタソス・コメニディスは、ボスとの最初の面接を詳細に覚えている。
そしてノブはマネジャーたちと交流するだけではない。「彼がレストランに来ると、新人たちのために、寿司を握るために必要な6つの所作をいつも見せてくれます」と、セルジオ・マルチネスは説明する。
「従業員たちがグループに残るのは、自分たちにしっかり注意が払われており、単なる給仕係もいつかマネジャーに出世することができるとわかっているからなんです」
ロバート・デ・ニーロの助け船
アラスカのレストランの大失敗の後、ノブは再び前掛けを身につけ、10年間ロサンゼルスの寿司屋で板前として働いた。1987年に彼はついに新たな自分の店、Matsuhisaをビバリーヒルズにオープンさせる。38席しかない小さな寿司屋だ。彼は努力を重ねた。皿洗いの後に就寝し、市場に一番乗りできるように起床した。「私は2時間しか寝ませんでした」と彼は回想する。
ノブの献身は報われる。マスコミに絶賛され、Matsuhisaは映画関係者やスターが集う場所になった。ノブ自身はセレブを気にすることはなかった。レストランが満席の夜にはトム・クルーズの予約を断り、初めてロバート・デ・ニーロが来店したときには気づかなかったほどだ。
デ・ニーロは店の常連となった。ノブをニューヨークに招き、新しい店を出す提案をした。シェフはその申し出を断った。まだスタッフたちが仕事に慣れていないことが理由だった。4年後、デ・ニーロから再び電話がかかってきた。
「君はいつニューヨークに来るんだ?」
デ・ニーロの熱意を確信したシェフは、トライベッカ地区に新しいレストランを開く契約にサインをする。これがグループ拡大の端緒となった。
今後の挑戦はなにか残っているかと訊くと、彼は数秒考えて答えた。
「私はお金や名声を追いかけてはいません……。ロンドンの店がミシュランの星を失ったとき、私はうろたえているスタッフに言いました。たいしたことではないと。私の唯一の願いは、従業員たちやお客さんたちの笑顔を見ることです」
からの記事と詳細 ( 仏紙も驚愕「世界で最も有名な日本人シェフ、松久信幸のフィクションのような人生」 | 幾多の不幸を乗り越え、世界で60店舗を展開 - courrier.jp )
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