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Friday, March 6, 2020

日比谷平左衛門氏 紡績の勃興期、貿易から生産へ - 日本経済新聞

紡績業が日本経済界の目抜き通りに位置していたころの人物評である。

「紡績界の人物と言えばだれしも指を日比谷平左衛門に屈する。彼は赤手空拳で実業国の一角によって紡績業を大成、統一した。で、世人は彼を称して紡績王と言っておる。この呼称は決して不当ではない。彼は確かに紡績王と称されるだけの事業をやっている」(サンデー社編「人物研究」)

写真は実業之世界社編「財界物故傑物伝」

写真は実業之世界社編「財界物故傑物伝」

「日比谷平左衛門は鐘紡社長兼東京商業会議所副会頭だが、彼はすこぶる勤勉家で紡績業については特に精緻該博なる経験を有し、いかなる学者、専門家もかなわぬほどである」(戸山銃声著「奇人正人」)

日比谷平左衛門は新潟県三条の人。縁あって大手繊維商松本屋の少年店員となり、精励恪勤仕事に励み、慶応元年18歳の時、同輩に先んじて支配人となる。20歳ころになると、自主独立の思いが強くなるが、既に松本屋の柱石的存在として欠かせない人物になっていた。

主人に忠順な平左衛門は独立したいとは言い出せなかった。だが10年後とうとう独立することになる。

「31歳の時日比谷家の家督を継ぎ、主家を辞するに至ったのちも、40歳くらいまでは松本屋のために相図るところがあった。彼の前半生は春を待つ冬の長き忍苦そのものであった。すなはち、時あたかも維新の変動でつまずく者頻々たりし状態で、松本屋もまたその渦中に陥り、商勢衰微の極に達した。彼は主家一切の実権をゆだねられ、その再興に奔走した」(実業之世界社編「財界物故傑物伝」)

日比谷商店綿花部を開業したのち営業範囲を拡充、綿糸の卸売業に乗り出していく。綿花も綿糸も国際商品として値動きが激しくリスクの大きい商品であったが、日比谷は長年の経験にものを言わせて自社の采配を振るうと同時に旧主人の松本屋の営業からも目が離せなかった。

日比谷は後年、自らの苦戦、失敗の原因について(1)紙幣の暴落による外国品輸入の打撃(2)当時流行したコレラの綿花業への影響(3)明治14年の朝鮮事変による財界の動揺などを挙げている。

明治29年は日比谷にとって大きく転換する年となる。従来の綿花綿糸の貿易商から紡績業に乗り出す。日本の紡績業は国際競争力をつけていたが、細番手の糸は輸入に頼っていた。国富増強の大義のもと、日比谷は東京瓦斯紡績を立ち上げ専務に就任、業績好調で初年度いきなり年6%の配当を出し、3年後には20%を達成する。

ところで明治26年に森村市左衛門が主唱して創立した富士紡績が一向に業績が上がらない。同33年に至り首脳陣の刷新を図るべく日比谷に白羽の矢が立つ。日比谷は固辞するが森村翁の説得に抗しきれず、富士紡績の取締役を兼任する。ほどなく鐘紡が日比谷に東京瓦斯紡との合併を申し込む。日比谷は峻拒するが、三井閥の鐘紡は大大的な増設計画をちらつかせ圧迫してくる。

ここに及んで日比谷は東京瓦斯紡績と富士紡績の合併を決断、富士瓦斯紡績が誕生する。時に明治39年7月のことだった。このころ相場師鈴久による鐘紡買い占め事件が勃発、日比谷は請われて鐘紡社長に就任する一幕もあった。=敬称略

信条
・彼は意思力と勤勉力の結合した偉材
・人となり沈鬱、底意地が強く、周密にしてつまずかない主義
・紡績業の両雄、鐘紡と富士紡を主宰した

(ひびや へいざえもん 1848-1921)
嘉永元年新潟県出身、13歳の時上京、綿糸綿花の豪商松本屋こと斎藤弥助の丁稚奉公となり、慶応元年支配人に抜擢される。明治11年東京の日比谷ツネの養子となる。31歳の時独立、日比谷商店綿花部を立ち上げる。同29年東京瓦斯紡績会社を創設、専務に就任、同33年富士紡績取締役を兼務、同39年鐘紡から合併を申し込まれるが、拒否、防衛上瓦斯紡績と富士紡績を合併する。また日清紡績の創立にかかわり、同43年2代目会長に就任。

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